フランスのキュレーターであるステファン・デュ・メルニドさんが私が「昭和の不思議」のお仕事で描いた架空の映画3本立てについてブログに書いてくださいました。日本の古い映画に詳しく、示唆に富んだ内容で海外の方がここまで私の絵について考察してくれているのは作者としても嬉しいです。私が説明していないところまで解説してくださった素晴らしい考察です。よろしければ読んでください。
翻訳文も載せておきます。
吉岡里奈については、このブログですでに話しています。
彼女の最近の作品は、架空の映画の三部作(※西洋で言う三連祭壇画)です。
左から『スケバンギャング』『野性の海女』『ラク町の女王』というタイトルがついています。
キャラクターの強烈な体現性(具現性)と色彩の官能性が、この三部作(祭壇三連画)をリナの最も美しい作品の一つにしています。
架空の作品ではあるものの、それら3枚はそれぞれ日本映画の特徴的な3つのカテゴリーに属しているように見えます。
『スケバンギャング』は、不良少女たちの映画をテーマにした作品です。
それはまさに、池令子と杉本美樹(70年代に『女番長ゲリラ』『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』などの鈴木則文監督作品に出演)が共演する70年代初頭の東映成人映画です。
それらの映画の世界では、制服姿の不良女子高生たちが、共通の敵であるサディスティックな校長先生や変態ヤクザに容赦ない戦いを繰り広げていました。 (成人映画の)エロティシズム、SM、制服フェティシズムなどの要素は、それらの映画が持つ革命性をまったく薄めていません。むしろ、それらの映画は、全共闘運動等から続くアナーキーさを受け継ぎ、あらゆる権威へ抵抗を示し、特に男性優位主義と戦いました。 この映画シリーズは、ヒロインたちの間の秘密めいた絆や、ヤクザのコード化された掟(身分を名乗る時に手のひらを相手に見せて切る仁義など)が話題となり、日本の若いロック・フェミニストやレズビアン達に大人気となりました。
『野生の海女』は、ふんどしだけで太平洋に潜って真珠漁をする海女たちを主人公にした映画へのオマージュです。
海女の存在は、西洋では主にフォスコ・マライーニの素晴らしい写真のおかげで知られています。
海女を描いた映画は1956年の志村俊夫監督の『女真珠王の復讐』などに代表され、南太平洋のエキゾチシズム(ヨーゼフ・フォン・シュテルンバーグ監督の『アナタハン』が描いた風景さながら)、また、水中での美しいダンスなどで新しい日本映画の地平を開きました。
当然の流れとして、このジャンルは1960年代のピンク映画の中で一つのポジションを獲得し、1970年代になると白鳥信一監督の『潮吹き海女』(1979)によって、にっかつロマンポルノへも組み込まれていきます。
さらにいえば、海女映画というジャンルは、”特殊な集団”として社会的にくくられた漁女たちの単一的「コスチューム(たとえその面積は少ないとはいえ)」によって、ヤクザ映画(ほぼ全員が黒いスーツをコスチュームのように着ていた)と結びつけることができるのではないでしょうか。
『ラク町の女王』はこれまでの二つと違い、特定のジャンルと結びついているわけではありません。しかし、日本映画の中で非常に良く知られる、ある一つのキャラクター(娼婦)と、彼女たちを巡る環境に結びついています。
代表的な例として、溝口健二監督は、娼婦を取り巻く世界を描くことで『夜の女たち』(1948)、『赤線地帯』(1956)などの傑作を残しています。
吉岡里奈の描く、壁にもたれて米兵に見守られている女性(娼婦)は、巻き髪に花柄のブラウスという姿で、昭和という時代そのものです。
「不良少女」であろうと、「海女」であろうと、「娼婦」であろうと、(吉岡里奈の描く)女たちは誰にも服従せず、むしろ、(わたしたち)「観衆」をじいっと覗きこんできます。
奇跡的な経済成長を遂げた社会の反逆者たち、因習に反旗を翻す田舎の女性たち、戦後を生き抜くために体を売った娼婦たち・・・吉岡里奈が描く架空の映画は、何よりも日本女性の戦いを描き出しています。